昭和42年12月19日  朝の御理解


 信心の心得の中に、( 音声途切れ )して信心しております。おかげはわが心にありと。疑いを去りて信心してみよ、みかげはわが心にありと、信心の心得の中にあります御教えです。疑いを断つという事が大体難しいことですよね。信心しておる者はおかげはわが心にありと、疑いを断ってからの信心でなからなければいけません。
 今の星野教会より、池上という先生が奉仕しております。その池上先生の前に池辺先生という、前代の親先生の直弟子、 ? 。まあ大変な御ひれいがたったんですね。もう山また山の中にある教会でございますけれども、事実信者が千人といわれました。そりゃもう大祭ともなると山越え谷を越えしてみんなが参ってくるんですね。もちろんあそこへ、星野の金山、金山ができまして、大変景気の良い時代があったわけなんですけれどもね、それはその時分の総代・・・?たら、ある御大祭にお参りなさった。それで、御結界の奉仕をしておった。ところがその、御祭典中の半ばにですね、まあここでも脇殿に御結界を移しますように、あんなふうで奉仕をしておられたんですよね。本当にその、けたたましゅう、その人の家からやってきた。それで総代さんの息子さんがです、柿の木から落ちて、もう、死んでおられるというわけなんです。今病院に連れて行ったばかりだからすぐ帰ってくれという事である。もう、山んところですから段々畑でしょうか、いまでもそうなんです。それで柿の木が低いばってん(      ?     )、石垣の上に落ちてなさるというんですね。そりゃあもう本当に落ちただけでも命がない。そしたらその総代さんがです、今大事な御結界の御用をしておるのであるから、お祭りが済まんと帰られんちゅうて言われる。私はもう、疑いを去りて信心してみよ、みかげはわが心にありというのはね、そういうような事だと思うですね。もちろんそりゃ、こういう今日は御大祭というのに、たっぴの用件ができた。ところが、大事な御用をさせて頂いておる。ちょっと( ? )に代わってもろうて家に帰っても、それは理屈の上から言やあそれが当たり前であり、私は思うですね、これはもう(端的に言われる?)。(?)総代さんがあるなら慌てふためいてです、ああそうですか、ならあそこの総代さんにすみませんけど御結界を代わって下さいと、ちょっと帰ってきますからと言ったら、私は死んでおったと思うですね、本当に。ところがですね、それこそ医者がたまがるように、帰られた時には息吹き返しておかげを頂いておった。そしてどこも怪我もなかった。だから、そこんにきを理屈を言わずに私はそういう風に信ずるべきだと思うですね。いかにですね、そこ辺が私はしっかりどん腹ができておらなければいけないかという事がわかります。大祭の祭典中なんです。しかも大事な御結界の御用を承っておるんだと、例え家から、家が崩れたといい、誰が死んだという、そんとの事は問題じゃない。この御用にはかえられない。というところまでの打ち込みからですね、私はいよいよ神様を信ずる力が生まれてくる。そこから疑いを放す事ができる。そして次の体験がです、いよいよその、疑いを去って信心してみよという信心が身に付いてくる事だと思うんです。この辺の事はどうぞ一つお互いがおかげを受けたい。それは、私がただ今例を申しましてもね、ただ今家からこういうような、ちょっと私がおらなければいけない用事を言うてきたから、ちょっと帰らせてもろうてまた来る。子供が柿の木から落ちてから、今重体だという知らせがあったから、死ぬ前にいっぺん、死んでもですね、ちょっとやっぱ親として帰ってみてやらなければ家内が心配するじゃろう、家が大事しよるじゃろうから、ちょっとここに御結界代わって下さい。そう言うのが当たり前です。けれどもそこんにきをですね、もう分かりやすく言うならです、もしそうであったら子供は助かってない。ところが、神様を信じきる、こういう大事な御用、いわゆるこういう御祭典中に起きた事であるから、よしそれは、なら死んでもそれは、ままよというどんばらもありましたろうけれどもです、神様を信じて疑わない心がです、そこを微動だにさせなかったんだとこう思うですね。それが次の奇跡を呼んでおる。みかげとは霊験と書いてある。信心してみよ、ね。
 私はね、今日の御祈念中にですね、その、もうこれは昔の昔聞いた話なんです。今の星野の話は。その話を頂くんです。だからそのお話は大体どういうような御教えに通じるのであろうかと思うて、分からなかったんです。それでこの、今教典を開かせて頂いたら、それを頂くんですね。疑いを去って信心してみよ、みかげ、霊験ですね、はわが心にありとこう仰る。その時自分の心次第がもう次の奇跡にもなりゃあ、まあただおかげにもなりゃあ、いわゆる、んなら、おかげを落とすともなるのでございます。霊験というのは、やはりその、霊験なんですよね。いうなら奇跡的なみかげをここでは霊験とこう、私は言うんであるとこう思うのでございます。そういうようなおかげというのはですね、ただ今申しますように、そういう信心から生まれてくるというわけじゃないですけれども、そういう信心が大事だという事なんです。家からちょっと電話がかかってくる。( ? )の御用でも、ならちょっと帰ってきますけん、ちょっとお願いしますばいっち言う。そういう時にです、例えば電話がかかってくる。今日はお前何ち思うとるか、今日は御大祭ぞ。例えば家内から電話がかかってきても、カチッときるくらいな信心は頂きたいと思うね。そこにです、帰らん方がよかったというようなものになってくるに違いないのです。
 私は合楽ではですね、これくらいなところはもう本当にできれる信心頂かにゃだめです。私がいつも申しますように、合理的な信心じゃない、超合理的な、私はおかげを現していくためにはです、超合理的、少しは(学んで下さるとね?)。本当にやっぱり度胸がいるですね。この人ばっかりは心臓ばっかり強うしてから、胃腸が弱かちゅうようなのがおる。(  ?   )、もう、まだ娘ぐらいでしたが、もうそりゃあつかましい事あつかましい事娘のくせに、あつかましいんですよ。その人が参ってきた。それこそあつかましゅうお願いしたんですよ。そしたら神様からです、この人ばっかりは心臓ばっかりつよて、胃腸が弱か。もう胃腸が悪かけん、ていげいしたことでもうぷりぷり腹かく。もう受け入れられんちゅう事ですよね。自分の都合のよか事ばっかり言うとです。いわゆるどういう食べ物でもです、それを有難く頂かせてもろうて、そしてその心臓もよいというのならば、これが本当なものです。この人は心臓ばっかり強うしてから胃腸が弱い。私共もそういう胃腸を丈夫にする信心、どういう事が起こってきてもです、驚かんですむ、頂き込ませれる信心。さあ、自分が帰ってみなければ安心ができんといったような事ではおかげにならんです。そこに、もちろん次の心の蔵ですね、心臓が強うなったと。続いて私は本当に度胸とはそういうようなもんだと思うですね。
 どうぞ。